けんぴいダンス

社交ダンスホールPlace×Place(プレイスプレイス)in鶴間の紹介ブログ

所作を美しく

 

半年くらい前に、とある頭の回転が早い先輩へ「思考を優位に働かせすぎです。」とアドバイスしたんです。

 

頭の回転が早いからどんどん合理的になっていって、次第に苦しそうに見えるときがあったんでね。

左脳優位だと仕事はできるものの、あらゆる事に目がいって安息とは無縁の生活になってしまいます。

やっぱり幸福を感じるのは右脳だと思うんですよね。

 

だからコーチングで培ったスキルを駆使して何度もそういうアプローチをかけていったんです。

その場ではとりあえずいい感じに右脳型に切り替わったんじゃないかなと思ってました。

 

しかし、それは僕にも同じことが言えるんですよ。

僕も左脳優位で精神的に落ち着かない状態が続いていました。

しかも割と多くのことに気づいてしまいますから尚更タチが悪い。

多分人よりストレス耐性が強いから平気でいられるだけで、それなりの精神的な疲れを色んなところから受け取っちゃってる気がします。

 

こういうとき瞑想とかが役に立つんでしょうけど、完全に合理脳に陥ってしまうと瞑想なんて時間の無駄だなんて気持ちもよぎってしまいます。

 

そんな浅い悩みを持ちながら生活してたらふと思い至ったんです。

「所作を大事にすること」に。

誰が見ていようが見ていまいが、姿勢を正して、全ての所作をゆっくり丁寧に行うこと。

そうするだけでもだいぶ心は落ち着いてくるんだと思います。

合理的になると早さを求めて動きも雑になってくるんですよね。

体(動作)が脳に影響を与え、脳からさらに雑な指令が送られてくるという悪循環です。

 

「丁寧に生きる」とでも言いましょうか。

歩く動作、立っている姿勢、内外に発する言葉遣い、そのほか細かな所作を美しく意識するだけで、内面の人間性すらも美しくなっていくような気がします。

 

いったん一息飲み込んでから行動に移すように心がけるといいのかもしれませんね。

 

外の世界は変えられない

 

外の世界は変えられない。

 

「他人のことは変えられない。変えられるのは自分だけ。」って言葉はいつも頭にあったはずなのに、どうにも他所に求めちゃう自分がいたんだなって。

大学卒業時おそらく就職前あたりに「手の届く範囲だけを幸せにできればいい」と思っていたのに、いつの間にか色んな外の世界を知って自分の可能性も知って、それ以上のことができるような気持ちになっていた。

 

人は変えられないんだから、他人の行為に無駄な正義感出してイライラするだけ意味ないんだよね。

分かっていてもそうなっちゃって苦しいときも多々あった。

でもようやく思い出した。というか戻ってこれた。

 

戦争は止められないし、株価だって操作できない。他人の悪事や不義理についてだって何にもできやしないんだよ。

だから手の届く範囲だけで生きていけばいいんだ。

 

 

またそのうち忘れるんだろうけどその時のために…

「外の世界は変えられない。

手の届く範囲だけ。」

思考パターン

 

性格とか、自分らしさとか、アイデンティティとか。

これって単なる「思考パターン」にすぎないんだ。絶対的なものじゃない。

「そういう人」っていうよりも、「そういう考え方をする人」って感じだね。

 

嫌なことがあったら、怒る人・泣く人・忘れる人・そもそも感じない人などなど。

それらを性格って言っちゃうと変えようがない気がするけど、目の前の事象に対してどういう考え方をするかっていうパターンだと考えれば変えられる余地はあるよね。

 

だから例えば片付けられないでいわゆる汚部屋にしちゃう人は、多少汚れても気にしない思考回路だし、そうじゃない人は少しでも汚れれば掃除しないと済まないと感じてしまう思考パターンってこと。

 

結局考え方の傾向でしかないなら、自分探しとか意味ないものだったんだ。

だって自分らしさは思考パターンの積み重ねだから。

もし自分を変えたいと思うのなら、反応や行動、考え方を変えていくのが一番の近道だろうね。

 

そう考えると、自分というのものは存在しないと思っている人たちがいることも少し分かったりもする。

この僕は単なる思考パターンであって、絶対的に存在するわけでもなければ、意味のある存在ではないと思うこともできる。

それを無気力に捉えることもできるし、余計な緊張感やら責任感から逃れる根拠としてもいいわけだ。

それこそ僕なりの思考パターンでね。

 

今を大事に生きる人、将来に向けて備える人、過去にすがってしまう人。

それも全部思考パターン。選ぶことも手放すこともできるわけ。

 

僕って存在が思考でしかないのなら、もっと気楽に生きてよさそうだよね。

 

新しい資格

 

なんか面白い資格見つけたなぁ。

今勉強してる第二種電気工事士よりも興味あるし、将来に活かせそうな資格。

しかもどうやら国家資格っぽい。(ちゃんと調べてないから嘘かも…?)

向き不向きというより、僕にとってもっと適正の高い仕事はたくさんあるだろうけど、興味と実益がありそうな感じがする。

 

今にでも第二種電気工事士放り出してそっちをやりたいけど、さすがにここまできたらもったいないしなぁ。

受験申し込みしちゃったし、最近過去問解くスピードも結構早くなってきたし。

とはいえ、まだ飛ばして勉強してないエリアもまあまああるけどね。

 

当たり前だけど、もうちょっと頑張ってこの資格取ってから次を目指した方がいいね。

 

なんか新しい道が見えてきていい感じ。

 

自分を大切にする人

 

なるほど、気づいてしまった。

世の中の善悪や優劣ではなく、自分自身を大事にしているかどうかを基準にして人を見ればいいのか。

 

ここで言う自分自身というものの中には、自分の大事にする家族友人や場所やモノの含まれるんだろうね。

 

だいたい不快に感じさせてくる人はポイ捨てしたり歩きタバコしたり騒いでいたりするけど、それはルールを破ってるからそれを見てイライラしていたんだ。

 

でも基準を自分を大事にしているかにした場合、そういう行為をしてしまう人格でいられる自分を持っていることで、自分の大事な人の評価を下げたり心を傷つけたりする。

例として窃盗はもちろん悪なんだけど、それにより世界最高峰の友人を裏切ったり、もう報道すらされなくなった綺麗な奥さんを傷つけたことが一番やっちゃいけないことだったと見るべきなんだろうと。

 

類は友を呼ぶって言葉があるけど、僕のチャーターに入ってくれる人たちのことを僕はマイペースなんだと思ってた。

みんなと仲良くするような穏やかな人たちだったから。

でもマイペースなんじゃなくて、自分で自分を大切にできる人だから心にゆとりがあって、他者にも穏やかに接することができる人が多いって話じゃないのかと思った。

 

やっぱり自分で自分を責める人って、どうしても他者からもそう扱われやすい。

自分を大切に人だからこそ、僕もそういう人を大切にしたいと思えるんだなって。

 

例えばみんなが僕を大切にしてくれたとして、僕自身が自分を傷つけてたら嫌じゃんね?

いくらしてあげても満足しない偏屈なやつだと思うし、優しくしてあげてること自体バカバカしくなってくるはず。

 

だからこれからは僕が尊敬すべき人は「自分を大切にしている人」。

そういう人を尊敬して目指して、そして大切にしていくこと。

そうすれば自分のことももっと大切に思えるだろうし、世の中もっと生きやすい世界に変わっていくだろうね。

 

常識破りは愛とセット

 

くそぅっ!💩

こんなにも「こうであるべき」という思想に縛られていたのか!

 

もっと軽く生きていいらしい。

資格取って今後の就職とか考えてたけど、もっと軽く考えていいんだ。

 

愛とセットの常識破りであればうまくいくらしい。

そういう考えでOKならば、もっと自分を許してあげられるし認めてあげられるね!