いつも遊びに来てくれてありがとうございます✨
このブログは、鶴間のPlace×Place(プレイスプレイス)というダンスホールのお知らせと、斉藤君のくだらない話を書いたりしています❗
昨日は空手の日だったんです。
でも最近休みがなく、あまりに疲労が溜まっていたためお休みしました😢
日本人は真面目すぎるせいで、辛いときこそ頑張ってしまう傾向があります💧
しかしそれで体を壊してしまったら元も子もないですから、自分の体に素直に休んだんです。
しかし体に素直になったところで、心には罪悪感が残ります⤵️
「空手に行かなかった代わりに何かしなくては!」という気持ちになったので、本を3冊もってカフェに行きました❗
少し読んでいるうちに集中力も高まって、いざここから!という時に
「お客様、蔓延防止の観点から本日は閉店となります。」
と言われました。
30分も読んでないのに、そういうことは先に言ってくれよ😢
と思いながら、仕方がないので帰りました。
しかし空手の代わりに本を読むことで、心の罪悪感を消そうとしていたのにそれすら出来なかったわけです💦
どうしたものか?と思いながら帰っているときに「そうだ。部屋を掃除しよう」と思いました。
先日、断捨離(人生)について書きましたが、断捨離(物)も効果がありますよね。
まあ本来、断捨離って言ったら物を捨てる方のことを指しますけど😅
とりあえず何かをしないといけない気分だったので、部屋を片付けました💨
物を捨てれば捨てるほど、心が豊かになるって不思議な感覚ですよね。
周囲に何もなくなることで、自分を見つめ直すことができるからでしょうか?
理屈は分かりませんが、そういうことってありますよね。
話は少し逸れますが、肩書きも同じことです。
僕は会社を辞めてダンスホールで働き始めたときに、不安でしょうがなかったですよ💧
サラリーマンという肩書きがなくなったことで、自分は何でも無くなったような気がして…。
でも今思うと逆なんです。
元々何でもなかった人間なのに、会社の肩書きがあることによって自分も他者も騙せていたんです。
最近はずっと「何者」「何者」と言っていますが、自分が何者であるかは、肩書きが無くなって初めて分かるんだと思うようになりました。
僕は鶴間のお店で「店長」だの「オーナー」だのいう肩書きを使わずに皆さんと接してきたつもりです。
お店の責任者は3人いますが、敢えて僕に色んなことを伝えてくれる人は多いと思います。
それは僕が責任者として聞いているのではなく、1人の個人として聞いているからなんじゃないか?と思います。
もし僕がお店の責任者という肩書きを断捨離したとして、次の日から皆さんが僕に接する態度が変わるでしょうか?
そこは「責任者だから」話しかけていたのではなく、「僕だから」話しかけてくれていたと信じたいですね😅
でも肩書きが無くなったからといって、そういう考えでやってきた姿勢も、これまでの実績も無くなるわけではありません。
そういう姿勢でやってきたことによって生まれた信頼関係というのは肩書きが無くなったと同時に一緒に消滅するものではないと思うんです。
僕はこれまで何かを身につけることで「何者」かになれると思っていましたが、逆に全てを捨てることで初めて自分が「何者」なのか分かるような気がします。
サラリーマンだろうが、お店の責任者だろうが、肩書きが無くなっても「自分は自分でいられる!」という自信を持てる人が、本当の意味で「何者」かになれているということなのかもしれません。
断捨離は過去を捨てるものではなく、今を見つめ直すための行為なんでしょうね。
いつまでも物に溢れて、雑念に溢れて、やるべきことに溢れていては、人として成長できませんよね💧
ミニマリスト(比喩)になって、本当に大切なものだけに集中できる人になりたいですね😄
それでは鶴間で、またお会いできることを楽しみにしています✨