けんぴいダンス

社交ダンスホールPlace×Place(プレイスプレイス)in鶴間の紹介ブログ

エルビス

エルビス・プレスリーの映画を見てきました。



正直『ボヘミアン・ラプソディ』は見ていませんが、こっちは見ようと思ってましたよ。







エルビス・プレスリーの歌は『ハウンド・ドッグ』くらいしか知りませんでしたが、何しろエルビスは僕のお父さんの憧れだったようだから興味は持っていました。



昔の家にはエルビスのジャケット写真みたいなもの飾られてたのを覚えているし、お父さんの憧れがどんなものか知ってみたかったというのが本音ですかね。









2時間50分くらいの映画だとは初めから知ってましたが、最後まで飽きずに楽しめました。



(正直、この前のバットマンの方が途中で「長いな…。」と思って飽きてしまった💧)












当時の実際の映像をもっと使ってほしいと思いましたが、まぁあのラストを見せるために使わなかったと考えるとそれもありなのかなと思いますね。




最後は効果的に実際の映像使ってましたから。









「男として」というのは時代錯誤の考え方かもしれませんが、あそこまで命を燃やして生きていた人というのはやっぱり憧れます。






命とか魂を燃やして…という言い方が1番ふさわしいという感じでした。




















僕は当時を知りませんが、やっぱりエルビスはスターだったんだなって思いましたね。








帰ってきてから少し考えてみましたが、彼はスターになりきったのでしょう。


スターでいつづけることを選んだというか…。








よく「社会の歯車で終わりたくない・なりたくない」という青年の主張みたいなものがありますが、エルビスは逆だったのかな…と。






彼は「エルビス・プレスリー」というスターであり商品でありつづけた人生だったようにも見えます。




最期まで世間から求められてる自分でいようとしたんじゃないかと思います。


その中に自分を見出したのかもしれません。











この広い世界の中で価値のある人間がどれだけいるのか。



きっと数えられる程度でしょう。










ただ少なくともあの時代に、エルビスは存在価値を世界に提供して証明してみせたんだと思います。






それが商品という人生だったとしても世界から求められた。

















僕は自由になることをずっと求めてきました。


時間からもお金からも人間関係からも、いずれは自由になりたいと。







それはいつから思い始めたのでしょう。


それすらも忘れるほど昔から…。














でもエルビスは逆だったようです。



自由にならないことで自分の使命を全うしました。










僕はそれが死後の美化として語られることはあまり好きではありませんが、それでも思うところはあるわけです。








自分が自由になることが幸せなのか。


それとも自由を手放してでも価値を提供することが幸せなのか。












でも、そうですね。



ある程度の自由を手に入れた今、今の僕は生きてると言えるのでしょうか?








そこにいるのかどうかも分からない。


そこにいようがいまいが変わらない。









そんな人生で生きてると言えるのか?






「商品」になる人生。


そんな生き方もありなのかもしれませんね…。












きっと想像以上に苦しい道なのかもしれませんが、「生きてる」って実感できる人生なんだと思います。















映画の冒頭でもこんなセリフがありました。



「たとえ10個愚かな行為をしたとしても問題ない。たった1つスマートなことができたのなら。」











でも本当の意味としては逆なのではないでしょうか…。



「10回のスマートな道を選ぶよりも、1度でも愚かな道を選んで生きろ。」







少なくとも僕はこういうメッセージを受け取りました。




苦しく険しい愚かな道…。




僕もあんな商品(スター)として生きてみたいですよ。