けんぴいダンス

社交ダンスホールPlace×Place(プレイスプレイス)in鶴間の紹介ブログ

読書と自分

 

やっぱり本読まなくなると、考える時間が無くなるからブログ書くこともなくなるね。

 

読書って新しい知識を入れるって目的もあるけど、ある考えを基に自分の考えをまとめたり改めたりすることが一番のメリットだと思う。

 

今は資格勉強して本を読む機械が激減してブログ書く気にもなれないけど、どっちが僕の将来としては有益だろうか?

どうせ使わない資格をポーズで取ったところで、自分自身の中身を育てて人間的に成長できた新しい自分には敵わないからね。

 

どっちもできたら理想だけど僕はそこまで器用じゃないからな。

でも確実にターニングポイントはやってきてるから。

もう少し明確にしたいものだね。

 

目標と計画

 

資格勉強していて思うけど、計画の立て方ってやり進めながらしかできないんだなって。

「毎日〇ページやる!」なんて言ったって、得意な問題のときはスルスル行けるし苦手なところはめちゃくちゃ時間かかる。

それに自分の体調や気分の問題もあるしね。

 

目標は先に立ててもいいと思う。

ゴールが決まらないとなかなか頑張れないし。

ただ計画は先に立てちゃダメだ。

やりながら進度に合わせてその都度立てていかないとうまくいかないもんだね。

 

 

変化

 

両親共働きの一人っ子で、元々人と話すことが苦手。

多感な時期に学校を転校したこともあって、そんな少年期を過ごしているとパーソナルスペースと呼ばれる人との心理的距離を大きくとるような子どもとして育ってましたね。

 

子ども時代に身についた性質というものはなかなか取り払えるようなものではないですから、そういう自分が嫌になることも多々ありました。

 

でもいつからでしょうね?

パーソナルスペースがかなり薄くなってきてることを実感します。

 

鶴間のお店をやる責任感と毎日毎日の接客回数のおかげ?

バンジージャンプ、料理教室、空手、コーチングなどなど色々経験して、変化していくことに対して慣れたおかげ?

それとも自分に少しずつだけど自信を持ち始めたせい?

 

結局は色んな要素が組み合わさってでしょうけど、人との距離感の取り方は大きく変わりました。

 

これまでの自分を思い起こすと、そんな姿の僕なんか自分じゃないと思うんですよ。

それでいながら一方で、変わっていくのが当たり前という考えも、頭の片隅で大きくなってきているんですね。

 

今まで色々経験してきましたけど、スキルや知識はしっかり身についてきたと思います。

ただ僕自身はいい意味で何も変わらなかったんですね。

何をしようと、どうなろうとも僕の中身は僕のままだったわけです。

 

これから先、色んな変化が訪れるでしょう。

ガラリと変わることから、目には見えないほど些細な変化だったり。

でもどんなに変わろうが、僕はきっと僕のままなんでしょうね。

 

それでいいんだと思います。

行先を見失っていようが、ゴールを見つけて進もうが、僕は僕のままです。

何を恐れる必要があるだろうか?

変化した先の僕も、自分らしいと信じて生きていたいですね。

 

どっちがいいかというより、その先の話

 

ちょっとすごいことだと思うんですよね。

当然人を騙すことは悪いことだって前提で話しますけど、経歴詐称してもバレるまではテレビのコメンテーターやら世界一選手の通訳やらになって信用まで勝ち取れるわけですから。

 

まあ、バレたらまずいという恐怖やバレた後の転落を考えるとリスキーですけど、成功したいならいかに外側が大事かってことが分かりますよね。

 

最近はルッキズムなんて言葉も流行ってますが、どうしても外見やら肩書きで周りの人は判断してしまいますから。

ハロー効果なんていう有名な心理現象もありますし。

 

僕は『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』という本や、ホリエモンの『ハッタリの流儀』って本を読んで衝撃を受けたわけです。

それまでの僕は容姿に自信がないことも相まって「人間、中身で勝負」って思っていましたが、これらの本の内容は真逆のことを言っていました。

「なるほど。確かにそういう面もあるよなぁ。」と正反対の考えを取り入れていたら、完全にそっち側に引っ張られましたね。

 

それが自身を苦しめることになるとは知らずに…。

 

一方で、「自分らしく」という言葉も流行ってますよね。(流行ってるっていうのか分かりませんけども。)

それは極端に言ってしまえば、ありのままで努力しなくていいという使われ方も一部ではされている気がします。

それもそれでズレちゃってます。

 

どちらがと聞かれたら、僕が思うにどっちでもいいと思います。

結局自分自身を成長させようという意志がそこにあるかどうかがポイントのような気がしますし。

 

外側変えて周りの評価を高めてからそこに追いつくのでもいいし、背伸びをせずに自分の得意分野を伸ばしていくのでもいいんです。

一番良くないのは、その状況に満足しちゃって何もしない事ですから。

 

まぁ言ってしまえば、両方大事って結論になるんですかね?

美味しいとこ取りができればいいわけですし、結果が良ければそれでオーライです。

 

悟りもどき

 

知り合いのお坊さん(どっちでしょうか?)から、悟りについて聞いたことがあるんです。

 

軽く聞いただけなので詳しくは分かりませんけど、これまでの人生とは見え方が一変するような気付きみたいなことだったような気がします。

 

そんな大それたことではないですが、考え方や見え方が変わることって少なからずあるわけです。

 

この記事を書いているのは3/23ですが、少し見え方が変わりましたね。

 

僕自身の発言や行動のせい?

それとも読んだ本の影響?

 

それに立場や関係が変わると考え方も変わるものですね。

僕自身は何一つ変わっていなくても。

 

色々とらわれすぎてたんだと。

ほとんどが僕に関係ないことなんだと。

 

また1つ大人になりました。

いや、子どもに戻ろうとしてるという方が正しいか?

 

名前と境界

 

名前を付けるってすごく便利なことだと思う。

人や物だけじゃなく、感情をはじめとした抽象的なものにも名前があるから、イメージやニュアンスに最も近いものを自分で選んで伝えられる、他人と共有できる。

 

それはそうなんだけど、名前を付けることで意味とか特性を与えてしまうというデメリットもあるんだなって。

 

「〇〇(人名や職業など)はこういうもの」

「〇〇はこうあるべき」

 

などと含みを持たせる余地なく限定させてしまうということ。

人に伝えるという意味ではズレは無い方がいいわけだけど、そのせいで自分の思考を固定させてしまったり狭めたりしてしまうことも起こってしまう。

それでいてその束縛された不自由さを自分では自覚しにくいという落とし穴まで付いてくる。

 

物事を限定的に確立すればするほど、世界の境界がハッキリしすぎちゃうんだなって。

もっと曖昧でいいのかも。

 

スピリチュアルとかだと「宇宙と繋がってる」とかいうのかもしれないけど、自分と世界の境界線をボヤボヤにした方が変なことに悩まなくて済むのかもしれないね。

「宇宙と繋がる」とか言葉で聞くと意味不明だけど、実際に腹落ちして体感した人にしか分からないこともあるだろうし。

(僕は分からないけど…。)

 

結局、左脳優位で生きてると考えすぎるし余計な悩みや疑念が増えやすい。

スピリチュアルって本質的には右脳優位で生きようよって話なのかもしれない。

 

もっと曖昧で適当に生きても、この先の人生が劇的に変化していくこともないだろうし、そんな感じでいいんじゃない?

 

過去は過去

 

まあ、やっちまったことは仕方ないよ。

これからだよな。

 

評価は変わるけど、人生変えるのは自分だから。

これからやり直すこともできるし、おちていくこともできる。

結局、自分の決断なんだから。