気づいてしまった。
今まで自分が生きる意味を探してきた。
何のために生まれてきたのか。
何をするべきなのか。
何もかも分からないが何者かになりたいと。
しかしそこに意味などはなかった。
虫が殺されるように、家畜が屠殺されるように、連日放送される見ず知らずの人が殺されたニュースで心が痛まぬように。
深い繋がりさえなければ、1つの命が消えようとも何も感じない。
というよりは気にも止めていないというほうが正しいか。
この歳になり結婚出産を周囲で見るようになって思う。
子どもを作るのはその夫婦の人生設計でしかない。もしくは遺伝子に刻まれた種の生存本能か。
人が生まれた理由などその程度でしかない。
そんな中で生まれた理由を探すことこそ困難だ。
そこに意味を見出していることなど、それこそ世に溢れる綺麗な戯れ言の類いだ。
しかし僕はそれを不幸だと思わない。
これまで僕は自分で考え、自分で選択してきたと思っていた。
しかしそれも環境によって流されてきただけだったようだ。
事業を始めてなぜ小さな成功を手にしたのかを考えたときに、自ら勉強しチャンスが来るまで耐え、自らの意思で行動を起こしたと思ってきた。
しかし人間は自分を過信しすぎる。
少し客観的になろうとすれば、間違いだと考えることもできる。
世の中の常識が就職を決断させ、
外的要因で仕事を辞めようと思わされた。
そのとき与えられた本で辞職を決意し、
それまで蓄積してきた知識によって導かれ、
全ての要因が重なり、タイミングは今しかないと思って行動させられた。
成功などその程度でしかない。
自分を取り巻く環境や人間関係にただただ流されてきただけだ。
それならいっその事諦めて、生きる意味などないことを認めてしまい周囲に流されてみるのはどうだろうか?
しかしただ流されるわけではない。
もはや激流でものすごい速さで流されてしまえ。
その速度に怯える必要もない。
流れの向きをあえて変える必要もない。
先を読むことも、考える必要もない。
ただ周囲が作り出す激流に流されればそれでいい。
流れが遅く感じたらもっとスピードをつけるくらいはしてもいいだろう。
自分なりの正義や信念を多少持ち合わせていればどこへ向かっているか考えず、流されるまま流されてしまえ。
その勢いで陸に上げられたらそこで考えればいい。
どうせ次のステージではルールが違うのだから。
陸上で泳ぎ方を考えても意味などない。
そのときは風に、けもの道に、また流されて進めばいい。
僕は僕でしかない。
結末の末端は変わるだろうけど、計画立てて歩んだ人生も、流れ続けて生きた人生も大まかな流れはそう大差ないはずだから。