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このブログは、鶴間のPlace×Place(プレイスプレイス)というダンスホールのお知らせと、斉藤君のくだらない話を書いたりしています❗
今になればハッキリ言えます。
僕にとって「鬼滅の刃」を見る意味はちゃんとあったと。
その映画を通して感じたこと思ったことは、僕の考えを1つ先に進めてくれました。
1週間前くらいの「扉」という記事で、
「この世に善悪なんかない」ということを考えていました。
でもさらに深い内部までは浸透していませんでした。
善悪なんてないと考えたくせに、結局は変わらず世の中を善悪で判断してたんですね。
ちょっと表現きついかもしれませんが、ズルい奴は悪。
ダラダラ何の目的もなく何も考えずに生きてる奴も理解できない。
人間は理解できないものを嫌いますから、そういう人も僕の中では悪でした。
…それこそ、職業の話で「理解できない状態でもいいんじゃないの?」と書いていたくせにね。
生きるとは、もっと自分を磨いて崇高なものにする行為であるべき。
とまではさすがに思っていませんが、それに近い思いはありました💦
でも「鬼は滅ぼすべき対象なのか?」という記事で、人間には悪という一面があって当然。むしろその方が良いと思いました。
そうやって善悪を考えて自分を見つめていく中で、自分の考えにもずいぶん矛盾があるものだと気付きました。
自分の都合の良いように考えてたなぁと。
強いて善悪の判断基準があるとしたら、「正義の押し付けこそが悪。」これだけだと思います。
僕は崇高さを目指すあまり、逆にそっちに近づいてしまっていたんです。
善も悪も両方あって良い。
そういう考えを自分の中に浸透させていくと見える世界が変わってきます。
ズルい人、迷惑な人など僕が嫌ってきた人たちはその辺にたくさんにいます。
それに対して「悪」という解釈を付け加える必要はなかったんです。
善悪がどちらも必要であるなら、白黒つける必要もありません。
もし社会的に悪いと言われることをやったとしても、その人はそういう面を持っていたというだけ。
事実にフォーカスしてもいいですが、解釈を付け加えることはNGです。
それは「そういう人間だ」というだけのこと。
それでいて自分は「こういう人間だ」というだけのこと。
悪の人間を今までは「関係ない」というジャンルに入れて無視してきました。
僕の世界に不純物を持ち込んでほしくなかったんです。
そうやって避けてきました。
でも完全に避けることは不可能です。
僕の世界に触れてくる度にいらいらさせられました。
だから人多いところとか嫌いで行きたくなかったんですね。
でももうそういう必要がなくなりました。
人間は善も持っているし悪も持っている。
「そういうもんだ」
と思うと簡単に許容できるようになります。
しかもそういうもんだと「理解」できたことにより、不快感も消えていきます。
他人をそういうもんだ。
自分をこういうもんだ。
と思えることによって自分の悪いところまで肯定できます。
そうやって自己肯定感が高まれば、僕の全て元凶である劣等感も消えていきます。
そうやって気付きました。
これまで目指していた理想と、僕があるべき本当の姿に乖離があることを。
僕は理想を目指すことで、片腕を使わずに闘っていたようなものです。
自ら制限をかけていたことに気付きました。
YouTuberやプログラマー、ネイリスト。
そんなものは僕が心からやりたいことでも何でもなかったんです!
将来のためにやった方がいいかもしれないこと。でしかなかった。
そんなつまんない人間になるな。
僕は「こういう人間」だ。
それでは鶴間で、またお会いできることを楽しみにしています✨