『ディア・エヴァン・ハンセン』という映画を見た。
ミュージカルを映画した作品らしい。
孤独な少年がついた優しい嘘の物語。
映画の出来は関係ない。
メイキングを見て、知った。
俳優たちは役を演じてるのではなく、この物語のメッセージを伝えようとしてるのだと。
言葉にしなくても伝わってくる。
それが彼らの使命、ミッションなんだと。
多くの人にこのメッセージが届いてほしい。
これを見てそれぞれ何かを感じ取ってくれたら嬉しい。
みんながそういう思いを持って撮影に臨んでいたことを知った。
僕もちょうどそんなような内容の本を読んだばかりだ。
だからこそ、考えさせられた。
「僕のミッションは何だ?」
と。
よく、「何のために生まれてきたのか?」という命題が掲げられている。
しかしそれに答えなど出ない。
生まれてくることなど、運とタイミングでしかないからだ。
数百億分の1の中からたまたま生き残り、
男になるか女になるかたまたま決まり、
裕福な大富豪の家に生まれるか貧しいスラムの街並みに生まれるかもたまたま決まる。
全てがたまたまでしかないのだから、生まれた理由など無い。
偶然そこに生まれただけだ。
「何のために生まれたのか?」というのは、傲慢で受動的だ。
あたかも自分に価値があるような目線で物を言っている。
これはそもそも問いが間違っている。
生まれてきたことに意味などない。
正しい問いは「何のために生きているのか?」だ。
こっちの方が能動的で、自分の意志でコントロールできるのだから。
何のために生きるのか?
僕のミッションは何なのか?
僕はこの先何をしたいのか?
少し考えてみた。
僕には何もなかった。
全てが平均的で目立つところも、特筆するほど優れた部分もなかった。
学校でも就職先でも、僕である必要などなかった。
ずっと変わりたいと願ってた。
そう夢見て過ごしてきた。
でも、どうだろう?
仕事を辞めて自由になった僕は、
自分のビジネスを小規模ながら形にしたし、
ダンスではお店を経営してコミュニケーションを身につけた。
今年になってからは自分の会社も設立してみた。
夢を抱きながらフラフラと歩いてきたこの道でも、振り返ると望んでいたものが手に入っていた。
しかし、どうしてだろう?
この言い知れぬ欠乏感は?
自分が望んでいた状態になり、それは人からすれば憧れの状態なのかもしれない。
しかし僕自身、嬉しかったのはその一瞬だけで常に欠乏感を抱えたままだ。
自分がどんな状態になろうとも満たされることはなかった。
僕は何をするべきなのか?
欠乏感の正体はミッションの欠如なのではないだろうか?
僕は最近ずっと自分のビジネスを大きくしていくことでミッションが見つかると思っていた。
でも違うのかもしれない。
お金に働かせても、自分で働かなければ自分自身が成長しない。
もしお金持ちになったとしても、自分がちっぽけなままだったとしたらそれこそ惨めに感じるだろう。
お金じゃない。
自分が何をするかなんだ。
色々自分の半生を振り返ってみると、ミッションになりそうなものはすぐに思い当たった。
それは以前やろうと思ったことであり、能力や経験、知識の無さ、そして人から言われた一言で簡単に諦めたことだった。
当時それをwhatとして考えていた頃には、それをやったところで成功しなかっただろう。
しかし、それをwhyとして捉えて取り組んだら何か変わるかもしれない。
ミッションのために生きること。
それこそがこの得体の知れない欠乏感を消し去る方法なのかもしれない。
大丈夫。
新しいことを始めることも、これまで築いてきたものを捨てることも、ここ最近は小さく何度も経験してきた。
今更、捨てることも始めることにも抵抗感などない。
自分の成功を目指すだけでは欠乏感は拭えない。
人の夢を一緒に叶えることの方がよっぽどスリリングでエンターテインメントな気がするね。