けんぴいダンス

社交ダンスホールPlace×Place(プレイスプレイス)in鶴間の紹介ブログ

語れるということは、生きたということ。

どれだけの知識があるから、どれだけの経験があるからといって、ものを語れるわけじゃないと思うんですよね。




何かを語ろうとしたら、1番必要なのは熱意ですよ。






いつの間にか僕が気づかないうちに始まっていた甲子園。


そこに出場している高校球児たちって、僕たちから見れば15〜18歳の少年たちですよ。





でも彼らは相当な熱意を持って野球漬けの毎日を過ごしてきたでしょうから、野球に関してはとても熱く語ることができるでしょう。



しかし一方で、何十年も働いていたとしても仕事に関してほとんど語れない大人たちが多いのも事実でしょう。


多分その人たちだってサボって手を抜いてるわけではないですし、その業界の知識や経験は豊富にあることでしょう。



それでも高校球児並に語れないのは、やはり熱意の差なんじゃないかと思うわけです。





プロ野球の試合終了後に飲み屋で、贔屓のチームの選手起用を語るおじさんたちも語れるだけ熱い想いがあるんでしょうし…。










そういう僕も大学時代、「文学部専攻」もとい「ダンス部専攻」というくらい勉強そっちのけで練習してたりもしました。



それに人数が少なく1人あたりの部活の運営上の仕事量も多く、それなりに頑張っていたと思います。





なので、大学時代のダンスの思い出に関してはいくらでも語れると自負しています。
























しかし、ですよ?









今の僕にとって、ダンス以外にそれくらいのレベルで語れることなんてあるのでしょうか?



「これだ!」と思うことに、熱意と魂を注げているのでしょうか?









この答えは簡単で、もちろん「No」ですね。



何かを熱く語れるほど、今頑張れてることなんてありませんよ。
















でも当然、それじゃダメなんですよね。



そういう人が悪いわけではないですけど、僕個人の価値観として、そうやって生きてる自分が許せない気がします。















向き不向きとか、経験の有無とか関係ないんです。



自分がそれをやるって決めるだけで、決めたらやるだけです。









今はまだ語れないですが、ダンス部で言ったら「1年生の夏」くらい。



あと3年もすれば、ダンス部と同じように語れるようになるんだと思います。









というか、そういうふうに未来を作っちゃえばいいわけです。




だからとんでもない覚悟を持って、行動するんです。


人からどんな目で見られようとも。











今ここが人生の分岐点になったわけです。

































うん。


多分ね…。