岡本太郎1冊と草間彌生1冊を読んで思ったのは、2人が絵を描いていたのは表現したいものがあったから。
絵を描く行為は、答えを導き出すための手段だったように感じる。
それでいて言葉でもあった。
人が絵を描くときは普通、既にこの世のにあるモノを描く。
それが目的になっている。
しかし彼らの目的は絵を描くことではなく、その先にある。
だからこそメッセージ性が強く、一見すると理解ができない作品が多い。
それは売るため、生活するための作品ではないから。
誰にも迎合することなく、外側ではなく内側へ向かって突き詰めているから。
だからとても鋭い。
それでいて2人は自分の確固たる世界を持っていて、この社会に批判・抗議をしている。
2人とも独創的で変わり者。
幼少期の環境があまり良くなかったからひねくれて、故に芸術家として華開いたと思われがちだ。
しかし本を読み2人の内面に触れてみると、誰よりも素直なんだと感じた。
周りの空気を読んで、社会という大きな流れに逆らわずに生きている現代人よりも、よっぽど自分に対して素直だった。
そのせいで世論との摩擦が生まれ理解されない。
しかし、そこで折れない強さがあった。
あまりに強く大きく決められた風潮に流されることなく、抵抗し啓蒙し壊そうとまでしていた。
それは時代への反抗・反逆ではなかった。
むしろ解放と言っていい。
世の中・社会・時代に飲まれた人々を解放しようと闘っていたのだ。
つまりあの独創的な絵にはとても強い信念があり、芸術を通して2人は自分が生きる意味をハッキリと見出だしていたのだ。
その姿、生き様は芸術家という範疇に収まらないと思った。
革命家とかそんな陳腐なものでもない。
彼らは人間だった。
信念、意志、生命力。
全てが力強く、使命とエネルギーに満ち溢れ、紛れもなく人間として生きた者たちだったのだ。
2人の死後、どんどんと時代は変わっていく。
技術の進歩により世界はますます多様性に溢れていく。
しかしそれは本当に個性的だろうか?
服装も行動も人と違うことを目指して、目立ちたがって自分の色を出している人が増えている。
だが要素は違えど皆同じではないのか?
個性的という評価を被った没個性なのではないか?
目立つこと、有名になること、認められること、バズること。
それ自体が目的になってはいないだろうか?
その先に信念やメッセージがなければ自分らしく「生きる」という主張にはならない。
もしかしたら後々立場が変わり「意味」を見出だす人も少なからずいるだろう。
そうやって「生きがい」を見つけられれば幸せだと思う。
しかし意味もなく、認められること自体を目的としていては苦しいだけだ。
それなら「生きる意味」を考えることの方が先ではないだろうか?
しがらみ・不自由とは世の中に迎合することであり、現代で言えばむしろ「個性を大事に生きよう!」という流れこそが息苦しさの原因ではないだろうか?
逆にそこからの解放を目指すことが、本当の意味での自由であり、人間らしくひいては自分らしく生きることなのだと思った。
2人の作品から単に「個性的」という要素だけ抜き取ってはいけない。
「個性的」というのは結果であって、本質は自由を求めた闘いの証。
真似すべきなのは短絡的な自由ではなく、その姿勢や信念の方だ。
芸術を理解することは今の僕にはできない。
あまりにも知識や経験が少ないから。
ただバックボーンや生き様からアプローチをかければ考えることができる。
作品は表現の1つであり、その主張から受け手が何を思って何を考えるのか。そこまで考えてメッセージを込めていたのであれば、それはもう芸術ではなく討論に近い。
その対話を通じて発見したり学んだりすることが、僕にとっての芸術の受け取り方。
とはいえ、芸術はもっと自由であっていい。
これは単なる僕の中の「意味」なのだから。
僕にとって芸術鑑賞は「人生」がテーマとなった講義だったりディベートに近いのかもしれない。